2013-8/9|金|16:27
甲寿園の若い職員(池松くん)が、入居者から戦争体験を聞きました。悲しい話ですが、戦争をしない国としてこの素敵な日本を守りたいと私(園長)は思います。とってもいい文書ですので、ホームページにアップします。若い職員の聞き取りです。 ・・・パート2・・・
※語り手 A様 九十歳
・・・・戦時の頃、私は中学生・高校生・成人とまだ子供から大人になる学生時代でした。奈良県に家族と在住しており、父・母・兄弟が八人で、上から二番目でした。戦争時何より辛かった事は、毎晩のように空襲警報が鳴り、防空壕に逃げる事でした。幸い奈良県にはあまり空襲がなく、大阪に空爆を落として帰っていく飛行機が上空を通って行きました。しかし、奈良県でも空襲警報が鳴り響きました。大阪で落ちる空爆の音が「どーん」「どかーん」と奈良県にいる私の耳にも聞こえてきました。その音におびえ、夜も眠れなかったことをよく覚えています。大阪で落としそびれた爆弾を引き返す際に、奈良県で落としていく。そんな攻撃もありました。
空襲警報が鳴ると布団で寝ているところ、飛び起き、まだ小さかった弟や、妹を抱きかかえて、防空壕まで必死に走っていきました。だが、防空壕は家からとても離れていたため、幼い兄弟が多かった私たち家族は避難までに時間がかかりました。「もし、大きな空襲があれば逃げ延びれない」そう思った父が、庭に大きな穴を掘り、防空壕を作り始めました。何メートルも掘った大きな穴に洋服を繋ぎ合わせた泥だらけの服で、穴を覆い身を隠しました。
その時穴を掘った際、いまではスコップなど土を掘れる道具はなく、父・母・兄と私で石や鉄の棒などで、手に豆ができるまで掘り続けました。家族みんなで、一人もかけずに生き延びたい。そんな気持ちがあったからこそ家族十人が入る巨大な穴を掘れたのだと私は思いました。雨が降る日は穴に水が溜まり、防空壕として非難できないため、水をくみ出し、幼い兄弟がおぼれない高さまで出し続けました。こうして避難生活が続けている中、一九四五年八月十五日、終戦の日を迎えました。それからは、食べ物に困難な日々が続きました。何日かぶりに来る配給は全員に配れる量はなく、並んでいる前の人でなくなることもありました。それでももらえた少ない配給を家族で互いに分け、少ない食料を摂っていました。味もひどい味がしたそうです。それでも生きるために食べていかなくてはいけないため、畑を耕している方に頼み、大根やにんじんのいらなくなった葉っぱや茎を煮て食べたこともありました。ろくに食事もとれない、まともな物も食べられない。その頃の体型はお腹はぺったんこでやせ細ってました。幼い妹や弟は身体を壊し、嘔吐や下痢、高熱をだしました。「このままではいけない」と父が思ったのでしょう。食料は蓄えていなかったが、銀行マンであった父が役職であったため、その頃は貴重であったお酒などを貰って蓄えていました。お酒嫌いでお酒だけは何十本も持っており、それを少しずつ食料と交換しました。それにより食事には困らなかったといいます。A様の言葉、「本当に食べることが幸せ」「今は簡単に食事を頂ける事に感謝です」に深い思いを感じました。
私たちのように戦争を資料や教科書で出来事として知り、「そんなことがあったんだ」「私たち僕たちには生まれてないから関係ない」と親身に考えられない者が大半だと思います。私自身も小学生の頃、広島原爆ドームに行き、戦争について学びましたが、そんな深く考えず、ただお土産にもみじ饅頭を買い、「修学旅行楽しかった」という記憶しかありません。しかし、二十三歳になり、実際に戦時の頃を体験された八十~九十歳代、百歳の方々から体験談を聞き、大変な苦労、戦争の恐怖、今では考えられないような出来事だったのだと実感しました。
終戦後、ニュースやラジオで多くの方が亡くなられた事を知り、日本全土が悲しみを覚え、繰り返してはいけないと、平和憲法を作ったこと。今はもう戦時を体験された方々も歳をめされ、伝えていく者が減ってきている中、戦争によって日本が深い悲しみを持った事、これから生まれてくる子、そして、そのまた子にも伝えていき、平和ということがどれだけ幸せなことか忘れてはいけない。そう強く思いました。